やじろぐ7

40代半ばの妻子持ちがゲームしながら解脱を目指すブログ

一生使えるモノ

高級腕時計は「一生使える」を売りにしているものも多いらしい。実際はその商品自体が一生使えるというよりは「一生使うことができるようなサポート体制を構築している」というものだが、それは企業として素晴らしい事だと思う。実際は部品とかの関係もあるから永遠に使えるわけではないんだろうが、高級腕時計を買うような人はそんなに若い人はいないだろうから、40代だか50代だかに購入して、30年か40年か、それくらいサポートできれば十分「一生使える」と言っていいんじゃないだろうか。

Apple Watchを買うときに強く意識したんだよね。高いスマートウォッチ買っても、2年くらいで買い換えないといけないんだろうかなーって。実際はもう4年近く経つけど、俺のSeries5は問題無く使えている。バッテリーの交換とかしたらまだまだ使えるんだろうけど、OSのサポートという壁があるのは致し方ないんだろうか。Appleは、Apple Watchを下取りにして新しいものに交換する事をお勧めするようだけど、データや体験を引き継げればデバイスの個体そのものは重要じゃないという考えなんだろうか、IT業界ではそれもありかもしれない。でも俺は1つのその個体を長く愛したいっていう気持ちもあるんだよお。

一生使える物は俺の周りにはあまり無い。というか誰の周りにもそうそうあるものじゃない。高級家具などは時計と同様、ちゃんとメンテナンスすれば長く使えるけれども、一生付き合うかはわからない。机やソファなどなど。ピアノも同様だ。手入れを欠かさなければかなり長く使える。

残念ながら愛用するものは頻繁に使えば使うほど消耗するものがほとんどだ。服・靴はもちろん。自転車やバイクだってそう。PC、電化製品、ゲーム機だって。食器だって家だって何でもそうなんだよ。愛するほどにお別れは早くなる。俺の中で、一番「一生使える」と言えるものは「文鎮」だろうと思う。紙が動かないようにする重り。あれはたぶん一生使える。その次に使えるものは「ダンベル・バーベル」じゃないかな。高いお金を出して買ったのだから、もちろん一生使う気でいる。ベンチやパワーラックは一生とはいかないかもしれないけど、バーやウェイトは相当雨ざらしにとかしない限りは一生ものだ。

その他に、時の流れに耐えられそうなものはちょっと思いつかない。けれど、人と一緒でその時にそのアイテムたちに囲まれて過ごしている今は今しか無いのだから。今をちゃんと感じて大切に過ごそうと思うのだった。

自分で自分をコントロールできない

しないといけない事があるのに体が動かない時は誰にでもある(と思いたい。自分だけじゃない)スマホ見ながら、こんな事してる場合じゃねーやって思ってるんだけど、止まらないんだよなあ。時間ギリギリになって切羽詰まらないと動けないの。そういう自分を自覚すると、誰か助けてくれーって心の中で思ってる。でも思うように動けない。

なーんか、考えてる事を途中でぶった斬る事ができないんだよね。その後それを忘れてしまうのが嫌なんだ。他に「あれしよう、これもしなきゃ」と思うけれど、その時注目しているそのソレから目が離せない。悪い癖だ。完全なる弱点だ。

自分をコントロールできたら、普通にいろんな事が叶う。ごく普通に。俺がそのごく普通にすらなれてないのは、自分をうまく使えてないからだ。行動をコントロールしたい。その邪魔をしているのは心だ。心が弱いんだなあ。

YouTubeって役に立つの?

実はYouTubeってあんまり観ないのです。だって一つの動画が10分とかするじゃない?常に何かしてなきゃ病の俺はノンビリした雰囲気が悠長すぎて見てられなかったりするのです。情報量としてはブログ記事とかの方が早く読めるよね。そういうのをみっちり読む方がいいなって常々思ってる。でも興味を持って観る時もあるよ、語学関係は好き、実際観ないと面白さがわからないよね。スポーツ系とか。音楽系もまあ。でも観ても月に一回とか、忘れた頃かな。活用してるとはとても言えない。人気YouTuberの動画とかほぼ観たことないよ。スミマセン。語学系の人だけ。

でも最近、YouTubeを見直しすべきかと思ったりするのです。興味がある事に対して知識を得たいと思っても得られなくて、でもYouTubeには解説動画があったりするんだやね。勉強するにはこっちの方がいいのかと思ったりして。これ、ブログとかにまとめるより動画にした方が収益につながるんだよね、きっと。それでもいい、知りたかった事を知りたいと思って動画を観て、やっぱり悠長で少しじれったくて時間の無駄的な感覚もあるけど、それで身になるならいいじゃない。

一つ難点があるとしたら、動画は改訂がしにくいようだ。情報が古かったりしてもアップデートされない。でも古いから再生数は多かったりする。なんだかなあと思うけど最新情報に対応した動画なんて無い事が多い。ブログだっだらすぐ改訂したり追記したりしてるのにね。正確な情報を誰かに届けるという姿勢と、再生数にフォーカスする姿勢の違いなんだろうかと思ったりする。

そんなこんなでたまにはYouTubeを活用しようかと思ったのでした。広告多いけど、有料サブスクをするほど活用しないかなー。

SNSで友達ができない

mixiが出会い系サイトじゃなく「知り合い系サイト」と言われたのもずいぶん昔な気がする。SNSはリアルな友人知人と楽しむものかと思っていた。

でもTwitterが出てきて「ゆるく繋がる」雰囲気は気に入ってた。今は全然ゆるい感じはしないけど、昔はTwitterのオフ会もした。何度もした。実際に会った人たちとは、割と友達になれてた気がするね。

最近はダメだ。まずTwitterでやり取りしてる人たちと実際に会いたくない。そうなると仲良くなるのも限界がある気がするよ。会いたくない、会わないっていうポリシーは弱ってる時にそう決めてただけだから、最近心が回復してるから、オフ会とか出たいなって思うこともあるんだけど。

ネットだけのやり取りって結構、結局、虚しいなって思うこともある。お互いにお互いをちゃんと分かり合えてないままなんだもの。

フォロワーとか多くても誰とも赤裸々になれなかったら意味なくない?何のためにSNS見てんのかわかんなくなる。やっぱり会ってみないと友達になりにくいのかな。俺はそういうとこ、やっぱり昔の人なのかもしれないねえ。

他人に「どういうこと?」とキレ気味に問い詰める強さが欲しい

俺は人との間に波風を立てるのが苦手だ。一つには以前も何度か書いたけど、人の怒りを見たくないんだ。ビビリだから。不愉快だよね。怒ってる人になんて声かけていいかわかんねえ。何が正解なんだかわかんなくなる。自分がプッツンしない限りは俺は右往左往して、余裕を持てなくなるんだ。

それともう一つある。嘘やごまかしがバレた時の人の焦り顔を見るのがつらい。俺は人を安心させたいんだ。人を追い詰めると、自分がつらいんだ。その人の気持ちがありありとわかって自分に投影してしまっている。自分がダメージを受けるんだ。人の痛みがわかると言えば聞こえがいいけど、要は弱いのよね。けっこー人の嘘には気づくんだけど。

俺の性格的弱点だ。なあなあで済ませようとする。これ良いとこだとも思うんだけど。自分にとってはどうでもいい事だったら、敢えていちいちそれを暴いて糾弾とかしない。時には騙されてあげる。良いとこなんだけど、同時に俺の一番ダメなとこの一つね、これ。

人を怖がらせてでもキレ気味に問い詰める心の強さが欲しい。どうしてそういう立場になった時には立場に立って逃げ場所を作ってあげちゃうんだろう。だからダメなんだよ。今、自分にとってどうでもいいことでも、明確にすることが求められている。めんどくせえな。

自分の気持ちズタズタになってでも、問い詰めないといけないんだろうなあ。精神力が欲しい。

www.yajiro.net

ただひたすら続けられるパズルゲームやりたいよ

iPhone用のゲームで以前「ボンバーマンチェインズ」ってのがあった。あれすごーく面白くて、シンプルな動作をひたすら続ける事ができた。スコアもけっこういってて、全国ランキングでも割と上位だっだと思う。もっとも、当時の参加者数なんてたかが知れてるけど。残念ながら今はプレイすることはできない。ダウンロードもできない。

ゲームボーイの「ヨッシーのクッキー」も熱中したゲームだ。狂ったようにやった。テトリスも繰り返し繰り返しやった。マインスイーパもひたすらやった。

そんな風に、短い時間でひたすら繰り返し挑戦できるパズルゲームはすごく好きみたいだ。本当に狂ったようにやるよ。でも今最近はそれに該当するパズルゲームはあまり無いようだ。幸いなことだ。

パズドラとかはちょっと違う感じだった。パズルがメインともいえない感じだし。パズル性を売りにしてるゲームは広告が多すぎたり、やたらバッテリーを食ったりするからダメだ。ボンバーマンチェインズじゃなくても、類似のゲームをよぬ探すのだけれど、うまく見つからない。何かないかな。

ひたすら繰り返す中でずーっとかんがえごとしてたりする。そういうのに熱中してるときって考え事にいいよね。

人に歴史あり 1

誰だってその歳までに積み上げてきた経験というものがある。重ねてきた歴史というものがあるよね。何もしてきてない薄っぺらな人間なんていない。それを時々、忘れそうになるけれど、その人のそれまでの人生に敬意を払って付き合っていきたい。

俺も今まで何かと辛い思いをしてきた気がする。苦労して、悲しんで、苦しんで、悩んで、歯を食いしばってきた。それらはもちろんもう終わった事がほとんどだから、自分で自分のそういう過去は過小評価してしまいがちだけど、自分がその経験を大切にしないと、たぶん誰も尊重はしてくれない。だから自分のつらい思い出を軽く考える必要も無いかなって思う。重く考える必要も無いけど。何しろもう終わった事なのだから、ほとんどは。

同じように誰もが辛い過去を持ってるんだろうなって考える。もちろん若い人は若いなりに、そうじゃない人はそうじゃないなりに、だけど。ずっと笑い続けて生きてきた人なんていないよね。つらいこともたくさんあったはずなのに、みんな今、笑って元気に過ごせてるって思うと、なんだか泣けてくるのは何でだろう。

そんな風に考えるのは俺だけなんだろうか、これは風変わりな気持ちだろうか? 俺のつらい過去は誰も気にしないけれど、俺はみんなのそういう過去も、別に何があったか知りはしないけど、そういうものも抱えて今があるってことをちゃんとわかってるよ。

もちろん、大事なのは今とこれからだよ。でも、俺は人のそれまでの人生の物語を尊敬してる。