やじろぐ7

40代半ばの妻子持ちがゲームしながら解脱を目指すブログ

友に語る。

人は自分の話を聞いて欲しいもの。でも、誰も俺の話を聞いてはくれないのである。少なくとも俺が満足するほど親身になってくれはしない。その温度差にがっかりするのがオチなのである。だから俺はあまり情熱をもって話をしなくなっているかもしれない。

俺は昔、友にいろんな話をした。友は俺の話を聞いてくれたし、俺も友の話をよく聞いた。思春期の頃は環境が一緒だし、互いの話は刺激的だった。でも大人になるとそれぞれ環境が変わって、互いの話に気を使う余裕が無くなったのかもしれない。友は俺の話を聞くは聞くが、面白そうに乗ってはくれなくなった。たぶん俺も友の話にあまり興味を持たなくなったかもしれない。というか、自分が興味が無いこと、知らないこと経験の無い話だと、よくわからなかったかもしれない。

元々他人なのだから興味関心は別のところにあったのだ。ある程度の共通項はあるにしても、お互いの趣味嗜好に深入りするには時間も体力もお金も余裕が無かったに違いない。思えば時を同じくして友も俺に自分の趣味嗜好を押し付けてこなくなっていってた気がする。なんだ、よく思い返してみると友が俺に冷たくなったのではなく、お互い違う人間として立派に成長する過程だったんだな。お互い様だったんだな。今、俺は、友の趣味に付き合ってやることはできない。友も一緒なのだ、気持ちが今ようやくわかる気がする。やっぱり、書きだしてみることは大事だな。

しかし俺は人の趣味嗜好に興味を示さないまでも、腐すことはしなかったと思う。友は悪気はなかったのかもしれないが、俺の「あれが好き」「あれをやってみたい」に割と冷ややかな言葉で馬鹿にした言い方をしていた。言われた方は本当によく覚えているもので、俺はその度にすごくがっかりして、面白いと思っていたことが面白くなくなったものだ。勝手に依存していたのかもしれない。だから俺はますます友に自分の事を話さなくなった。今も、そうなっている。自分が好きなこと、楽しんでいること、それが友が興味を持ちそうなことならば言うが、たぶん馬鹿にするであろうことは全く語っていない。SNSで語っているのを目にしているかもしれないが、そのことについて友に語りかけたり誘ったりしたことはない。これは特に悲しい事ではない。最適化なのだ。

だが俺は今やってみたいことがある。それを誰かに聞いて欲しい。友に語りたいし友に聞いて欲しいし友に味方になって欲しいと願っているのだ。温度差はたぶんあるだろう。似たような話をして冷水をかけられた記憶もある。だから結局は言わないだろう。こんな歳になって何を今更とか言われそうだ。情熱を冷ますような事を言われるくらいなら言わない方がいいだろうと頭では理解している。友は、そういう相手ではなくなっているのだろうと。でも、聞いてほしい。友だからこそ。

本当は同じ趣味嗜好の人を探せばいいんだろう。やってみたいことはそのこと自体に関わることなのだから、そうしようと思うが、何事も独りでやると悲壮感が漂うものだ。しかし友にはやはり語るまい。おそらく良い反応を期待するならば、独りよりも面白くない気持ちになるだろう。友情は感じているが、俺はどうしてもそう思えて仕方ないのだ。